Vol. 17 THINK BLUE

10月1日、一人の日本人ベースボールプレーヤーが80年以上破られなかったメジャーリーグの記録を塗り替えました。そしてこの日、私は幸運にもその舞台となったセーフィコフィールドで、歴史的な瞬間の証人となることができました。

3年前から毎年1回はホームで彼のプレーを観るためシアトルへ足を運んでいました。私のアパートから車で30分ほどのアナハイムでもマリナーズ戦が年間3回、合計10試合ほど行われるので、労せず彼のプレーを観ることはできますが、地元ファンの声援を彼が一手に集めるホームの雰囲気は、シアトルでしか味わうことはできません。今年も5月初めにヤンキース戦を観に行きました。シーズン始まって間もない頃とはいえ既に絶不調の兆しが見え始めていたマリナーズ。最後に大記録をつくった彼もその頃は低迷しており、むしろそのヤンキース戦初戦に500本めの二塁打を放ったエドガー・マルチネスに対する声援の方が圧倒的に目立っていました。

しかしその後の彼は違っていました。月間50安打を何度も達成し8月中には200安打に到達するなど、どうにもこうにもならないチーム状態とは対照的に黙々とヒットを量産します。その姿をどうしてもホームでもう一度観たいという気持ちが日増しに強まり、8月から9月にかけてのマリナーズのホームゲームのある週末と自分の予定とをにらめっこをする日が続きました。結局9月末までは都合がつかず、10月1日からの今期最終シリーズに照準を合わせたのは9月初めのことでした。実は地元ドジャースも同じ10月1日から地区優勝を争うジャイアンツとのホーム3連戦を控えており、もとからこの3日間はドジャースタジアムに通い詰めと決めていたので、私にとっては苦渋の選択となりました。結局、双方ともあきらめきらず最終の3日だけはドジャースタジアムのチケットをとり、1日、2日のマリナーズのゲームを観にシアトルへ行くことにしたのです。

その頃シーズン最多安打記録への期待がTVやインターネットで騒がれ始めていました。それまでの彼のペースからすると、Xデーは最終ホーム3連戦の前の約2週間にわたるロードの最中にやって来ると予想されました。彼は9月に入って伸び悩み、ロードの最中どころか本当に達成できるのかという不安がよぎりました。しかし20日からのアナハイムでの3連戦で11安打と爆発し、これで私は今シーズン内での記録達成を確信しました。それからはほとんど1日1本、残り試合数と記録達成までの安打数がほぼ同じという微妙なペース。このあたりからひょっとしたら記録達成の瞬間を目の当たりにできるかもという期待が否が応でも生まれてきました。ロサンゼルスではマリナーズ戦のTV中継がないためインターネットを見ながら、打って欲しいけど2本以上は打たないで!とドキドキしながら試合結果を見る毎日を送っていました。

そしてシアトルへ向かう前日の30日、記録到達まであと2本と迫った彼のこの日の試合はオークランドでのデーゲーム。私は会社で密かにインターネットの速報を見ながら心ここにあらず状態。1打席めの凡退後、2打席めでヒット。これで記録まであと1本となってしまい、私的には万事休す。ま、タイ記録は今日でも新記録は明日ってこともある。3打席め凡退、4打席も凡退、とうとう最後の5打席め。三振!え?ホ、ホントかよ?私はまるで1億円の宝くじに当たったかのような思いを経験しました。これでもう一生分の運を使い果たしたかもしれないと思いました。されど喜ぶのはまだ早い。あと1本と迫って久々のホーム。さすがの彼だって緊張するかも。下手すれば1本手前のまま3日間ノーヒットということだって。いや、私にとって最悪なのは2日間安打が出ずに私がチケットを買わなかった最終戦で記録達成となること。そんなことが起こったら、私は人もうらやむラッキーガイから、一転、ツキにとことん見放された笑いモノです。

そしてもうひとつ気になっていたのは、インターネットで見たある日本のスポーツ新聞のコラム。低迷するチームのせいもあり、シアトルでは日本人が騒ぎ立てているほど彼の記録に関心が高くないというのです。むしろ、球場に来ても彼の打席以外は雑誌を読んでいる日本人ファンや、彼を取り巻く異常な日本の報道陣の多さに奇妙な視線を浴びせているともありました。確かに彼が今年のオールスターで落選しかけたのも、シアトルのファンの投票減少が要因であることは容易に想像がつきます。またメジャーでは珍しく生涯1チームを貫いたエドガーが今期での引退を発表し、その引退セレモニーが2日に予定されているなど、この最終3連戦はエドガー1色になるんではないかとも思いました。せっかくの記録達成が日本人の空騒ぎだったら哀しい。しかしそんな心配は不要でした。当日シアトルの空港に着いてレンタカーを借りようとしたとき、マリナーズTシャツを着込んでいた私にカウンターのお兄ちゃんが「今夜の試合、観に行くのか?」と聞いてきました。力強くうなづいた私に彼は笑顔で「アイツはきっと今夜やってくれるよ。」もうその言葉ですでに私はウルウル。

試合開始は夜7時すぎ。51のジャージやTシャツを身にまとったファンがゲートに向かって急ぎます。球場前では258と書かれたTシャツを売る露店も発見。セーフィコは超満員。一月前にチケットをとったおかげで最後尾ながら1階席ホームプレート真後ろの席を確保できました。試合前の先発メンバー紹介で彼の名前がコールされただけでいきなり球場全体が凄まじい歓声に包まれました。それはエドガーへの歓声を圧倒していました。スコアボードにも彼の記録達成間近の情報を伝えるメッセージが映し出され、球場に来ていた記録保持者シスラーの家族を歓迎する映像も流されました。球場じゅうがただその1点に注目していました。

そして彼の最初の打席、観客は総立ちとなり嵐のような歓声で彼を迎え入れました。その瞬間はいきなり第1打席にやってきました。そしてさらに続く打席で新記録達成の#258を放ったとき、試合途中というのにダッグアウトからチームメートが飛び出し、まるでチームが優勝したかのような騒ぎとなりました。私は自分のことのように喜び合うシアトルのファンに囲まれ、単なる野球の試合の出来事とは思えない感情に浸っていました。彼の放ったこの2本のヒットは決して会心の当たりといえるものではありません。パワー全盛のメジャーリーグにあって、彼の安打は見栄えのしないゴロのシングルヒットが多く、この日の記念すべきヒットもまさにそのようなものでした。かつての日本の精神を思わせるようなこうした地味な安打の積み重ねが、アメリカで頂点に達しアメリカのファンにこれほど讃えられていることがとても感慨深くありました。試合後ホテルに戻り、TVで繰り返し流される彼の映像を見ながら、私はシアトルのファンに乾杯しました。

同じ1日、ロサンゼルスでは地区優勝まであと1勝と迫ったドジャースが猛追するジャイアンツに惜敗しました。ドジャースの地区優勝の瞬間も目の当たりにしたいと願う私にとって、これは朗報。翌2日、私はシアトルファンに恩返しとばかり背番号11のエドガーTシャツを着てマリナーズの試合観戦にやって来ました。その時セーフィコフィールドの他球場試合経過ボードには、ドジャースが0ー3で負けていて9回裏の攻撃中と表示されていました。よし!今日もこのまま負けて明日、ロサンゼルスに帰った私の目の前でドジャースが劇的な最終戦での地区優勝を飾ってくれる、ちょっとツキが良すぎてコワイ、と自分の運の強さを信じて疑いもしませんでした。しかし、もう一度目をやった途中経過は2ー3、ほどなく3ー3とドジャースが追いつき、さらには7ー3。え?9回裏で3ー3から7ー3、ということは決まっちゃったわけ?ドジャースは0−3の劣勢から9回裏に一気に追いつき、延長戦に入ることなくグランドスラムでのサヨナラ勝ちという、これ以上ない劇的な地区優勝を私の留守中に飾ってしまったのでした。

翌3日、私はデーゲームで行われるドジャースの今期最終戦を観るために、まだ暗い早朝にシアトルのホテルを出て空港に向かいました。到着したドジャースタジアムでは、試合前に前日の劇的な勝利シーンが何度も繰り返し大型ビジョンに映し出されていました。その映像に歓喜する観客も私には虚しく見えるばかり。その日は石井の登板ゲームでしたが打ち込まれあえなく降板。他の主力選手は間近に控えるプレーオフに備え、1回、打席に立ってすぐに交代。試合は0ー10と消化試合のお手本のようなスコアで惨敗。炎天下の外野3階席で眠い目をこらえていた私もさすがに限界で、試合終了を待たずに球場を後にしました。

ドジャースのプレーオフ進出が決まる前からディビジョンシリーズのチケットを手に入れていた私ですが、プレーオフでは敵地でカ−ジナルスに2連敗と大苦戦。ようやく勝利した第3戦をTV観戦し、やっと念願のドジャースタジアムでのプレーオフ初観戦となった第4戦。シーソーゲームの2−2から主砲プホルスに3点HRを打たれ、ドジャースタジアムの観客数新記録となった5万6千を超える大観衆がため息とともに静まり返りました。そのまま息を吹き返すことなく、ドジャースのワールドシリーズ進出の夢は早くもついえてしまいました。私はすっかり放心状態となり、ますます劇的な地区優勝の瞬間を見逃したことが残念に思えて仕方ありませんでした。

今年のドジャースは1点差での勝利と逆転勝利の数でリーグトップと、スリリングな試合をものにして地元ファンをわかせてくれました。当初は野茂、石井の登板日に照準を合わせて観戦していた私ですが、二人とも後半、先発から外れ好調なチームとは逆にその影が薄れてきました。しかし、いつの間にか私は、日本人プレーヤーに関係なくドジャースというチーム、個性的なプレーヤーたち、そして大声で勝利を喜びあう地元ファンにすっかり愛着が生まれていました。ミスター・ドジャースとでもいうべきチームの要のキャッチャー、ポール・ロドゥーカがシーズン途中で電撃トレードに出された時には本気でチームに怒りを覚えました。今期突然開花しホームランキングとなったエイドリアン・ベルトレを打席に迎えるときは地元ファンと一緒に、MVP、MVPと大合唱しました。守護神ガニエの球がストライクをコールされるたびに拳をあげて絶叫しました。いつでもHRを狙って大振りするグリーン、トラブルメーカーだけど憎めないブラッドレー、自分の登板日以外でもアニマル浜口ばりに気合い入れまくってチームメートを鼓舞するリマ、二遊間で職人技を見せるコーラとイズタリス、皆、個性豊かにゲームを盛り上げ、ファンを楽しませてくれました。

低迷するチームのなかで一人気を吐き、メジャーの頂点に立ってシアトルの地元ファンを最後までわかせた日本人プレーヤー、イチロー。頼みにしていた日本人ピッチャー二人の不調を乗り越え地元ファンに劇的な地区優勝をプレゼントしたドジャース。日本人プレーヤーの活躍見たさがきっかけで始まった私のメジャーリーグ観戦でしたが、数年の間にこの2つのチームとファンに私はすっかり愛着を感じるようになっていました。アメリカのプロスポーツチームはまさに地域を代表するアイコンです。同じ地域に住む人々が勝利という共通の目的に向かって意識を共有できる対象です。そしてその対象は生き物のようで、ダメなときもあれば良いときもあり、いつかはワールドチャンピオンという夢を抱くことが地域住民の活力となっているのです。これはオリンピックで自国の選手が金メダルを獲ることとは全く質が異なり、アメリカでは遙かに大きな意味を持っています。ドジャースタジアム脇の丘にまるでHOLLYWOODサインのようにTHINK BLUEの文字が立ちならんでいます。ドジャースを愛する地元ファンへのメッセージ。そしてこの言葉を介して住民と地域が結びつき、住民同士がつながり合っているのです。
(2004年10月)