Vol.11 WTC RIP
私は三年前の夏、何のあてもないのにホイと日本を飛び出して、ニューヨークに来てしまいました。そして毎日仕事を探す以外これといってすることもなく、かといって遊ぶお金もないという、ただの無職の一外国人に成り下がってしまいました。私がそのころ住んでいたアパートの四軒先には、場末のイタリアンレストランがあってそのうちにそこの人達と知り合いになり、ニューヨークにいるというのに何故か大量のイタリア語とイタリア語訛の英語の中で暮らすという、フシギな日々を送っていました。夕方店の前を通ると「オイ、寄ってけよ」と言われ、外のテラスで毎日のようにタダのワインやタダのパスタを振る舞われるという、今考えると超お気楽でとんでもない生活でした。
その店があるサリバンストリートの南のはずれには、ワールドトレードセンターがよく見え、特に夕方から夜にかけてはあかりがとてもきれいで、それをながめつつタダワインを飲んでいると、自分がビンボーなんだかリッチなんだか解らなくなってしまうのでした。去年の夏、現在住んでいるマンハッタンの東側のアパートに引っ越してくるまで、私は毎朝毎夕、ワールドトレードセンターをみて暮らしていました。就職活動がうまくいかなくて、「てやんでぇー、チクショー」と思いながら眺めたときもありますが、朝きれいに晴れた青空に、二本の大きなツインタワーがくっきりときれいに見えると、それだけで「今日はオッケー」と元気が出ました。
さて、あの日はいつもと何ら変わりの無い朝でした。いつものようにテレビを時計代わりに、コーヒーをいれて朝食を食べ、バスルームでお化粧をしたあとテレビのスィッチを消そうとすると、何故かワールドトレードセンターが燃えています。あまりに非日常的なことだったので一瞬「新しい映画?」と思いよく見ると、画面の角に「LIVE」の文字。そして「ワールドトレードセンターに、飛行機がクラッシュしました」というアナウンサーの声に驚き、そこにあったカメラを掴んで外に出ると、今画面にあったのと同じ黒い煙が上空に。そのまま写真を取りながら歩いて会社むかいましたが、誰もが「オーマイガット」といいながら、ボー然と空を見上げるばかり。会社に着くとみんなバッグを抱えたまま、やはりボー然と会議室のテレビに見入っています。そして私はこのときやっとこれが事故でなくテロで、飛行機がそれも二機も突っ込んだということを知りました。そしてその日は、長距離電話がすぐにつながらなくなってしまった上、当然のことながらあまりに皆のショックが大きかったので、仕事は中止。地下鉄も止まってしまったので、路上には人があふれました。マンハッタン以外から来ている人は、自力で橋を渡るか振替バスに乗るかして、何とか家に帰りました。私のアパートの周りは大きな病院が沢山あるので、私が戻るころには周りの道路は一般車両が入れなくなっていて、その代わりものすごい数の救急車が一日中走り回っていました。
翌朝早朝、ベッドの脇の電話が鳴ったので慌てて出ると、「朝早くにゴメン。レベッカなんだけど」レベッカは私の会社の営業担当で、そういえば昨日ボーイフレンドのアレックスのお兄さんが、あのビルの中で働いていると心配していました。「こんなことお願いして、本当に申し訳ないんだけど...」とすまなそうに言いながら、「アレックスのお兄さんが事件のあと行方不明なので、不明者のインフォメーションセンターにいって、様子を聞いてきてもらえる?」その日はマンハッタンに入ってくる橋もトンネルも、全てシャットアウトされていたため、ニュージャージーに住むレベッカたちは入ってくることができなかったのです。おまけにインフォメーションセンターは、うちのすぐそばの病院。
「まず名前はいくつかあって、出産証明書に記載してあるのはルイジなんだけど、いつもはみんなにジーノってよばれていて...」
う〜ん寝ぼけた頭に、英語はツライ。
「え〜と、ジーノってどう書くの?」
「スペルをいうから、G-I-N-O。それで名字はカルヴィー。C-A-L-V-I。働いていたのは、ノースタワーの104階で...」
こうして30分後、私はインフォーメーションセンターに向かいました。ビルの前に着くと、20人くらいの人が並んでいました。ものすごい人ごみを想像していったので、あまりの少なさに驚き、「ここでいいんですか?」と尋ねてしまったくらい。そのうち入り口が開いて、配られた紙に名前を登録し、小さなホールに通され、そこで係の人に説明を受けました。中にはシクシク泣き始める人などもいて、ボランティアの人がティッシュやお茶をくばってくれたり、神父さんが来て励ましてくれたり。私の隣の黒人の男の子は、たった一人の家族である、お母さんの行方を探していました。そのうち5枚くらいの質問書が配られ、できるだけ沢山詳しく記入するようにいわれました。見てみると、不明者の生年月日、身長体重、髪の色・目の色、ホクロ・キズのあるなし、結婚指輪はしているか、当日着ていた洋服などなど。名前と勤め先しか聞いてこなかった私は、公衆電話からレベッカに電話して主な情報をもう一度尋ねて記入し、ホールに戻って待つこと30分くらい。やっと私の名前が呼ばれ、今度は地下に連れていかれました。
そこはニューヨーク警察の面談所で、まず病院に収容された人のリストを見せられました。しかし私が探している名前はそこにありません。突然「ご家族ですか?」と聞かれたので、「会社の同僚の親戚を探している」と答えると、「家族でない人は、対象になりません」え〜、そんな、せっかく来たのに...「他に何かできることは?」と尋ねると、今度はコンピュータールームに連れていかれ、「ここから生存者の名簿にアクセスできるようになっています。それで調べてみてください」それでもやはり、私が探している名前はありません。この時点で来てからもう二時間ほどが経過。なのに何の情報もナシ。これじゃレベッカに合わす顔が無いじゃないの。仕方が無いのでその辺にいるボランティアの人に、「コンピューターで探しても、見つからないんですが」というと「警察の人と話した?」と聞かれ、結局私はその奥の部屋に連れて行ってもらえました。
私の担当の人は、私が直接の家族でないと答えても、親切に書類を作ってくれました。但し、会ったこともない人を探している訳ですから、詳しく聞かれても解らない事だらけ。その度にその項目をメモさせられ、「家族に聞いたあとで又出直すか、電話してください」と言われました。「細かいことを聞いてるなとお思いでしょうが」私が直接の家族でないからか、警察の人はいいました。「とにかく全てがバラバラになって、そこら中に散らばっているんです。こうでもしないと、身元の確認もできないんです」私はあまりのことに、頭の中がボーッとしてしまいました。最後に、「これが登録番号です。情報はこの番号にアップデイトされます」と、名刺大の紙に何やら記号がかかれたものを渡されました。三時間もいて、こんな紙切れ一枚...とそのときはちょっと落胆したものの、結局あとになってこれが多いに役立つことになりました。ビルの外に出ると、そこには長蛇の列。結局私は、インフォメーションセンターに来た最初のグループで、そのあとものすごい量の人がここに押し寄せたのでした。そして私が渡された登録番号をもらうのでさえ、あとから来た人たちは長時間待たされたと、後になって聞きました。
行方不明者インフォメーションセンターはその後Armoryという軍の施設に移され、その建物は私の会社から細い道を隔てたすぐ向かい。日本のニュースでご覧になった方も、沢山いらっしゃると思いますが、その周りには行方不明の人を探すたくさんの張紙が張り巡らされ、花が添えられキャンドルが灯っています。毎日会社に行く度にそれをみている訳ですが、それでも私は未だに信じられません。今でも以前ワールドトレードセンターが見えたところに来ると、思わずそちらを見上げてしまいます。そして、バカみたいですが、一生懸命見たら見えるかもしれないと、しばらくじ〜っと見つめてしまいます。ニューヨークは沢山の人たちといっしょに、ワールドトレードセンターも、あのビルのある風景も、そしてあのビルからの風景も失ってしまいました。今ニューヨークのストリートのあちこちにスプレーペイントで、「WTC RIP」という 文字が描かれています---World Trade Center, Rest In Peace---ワールドトレードセンター、安らかに。
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